なんで朋ちゃんのことを書いているのかといえば
自分と重ねてるからだ。 しっかりとした自己肯定感のなさを重ねている。 誰に認められるでも、なにかをやっているからでもなく、 「自分が在る」ということに対しての肯定。 それを持っている人がどのくらいいるのかといえば 疑問だけど、 それを持っている人、手に入れた人 は健康的で魅力的だ。 安心感を発する人だ。 「なにかをする」ことで自分を肯定するのはいいことだ。 だけど「何かをしている自分」にしか価値がないと考えるのはあまりよくない。 わたしは、自分の思ったことそのまましゃべることを、すっと 共感してもらえたとき(人が当たり前にしてることなんだから、自分だけがつらいと思うべきではないと思っていた) 自分のしゃべっていることを興味を持って聞いてもらえて、それで自分がしゃべることが楽しくてしょうがないとき、解放された。 人の力を借りて、自分を肯定することができた。 解放することができた。 どうしても、自分で自分に鍵をかけて、見せまいとしてる自分がいる。 自己肯定感のないまま、人と関わっていると 誰かから肯定をほしがる。 深く入れないまま、に不満足を感じつつ 薄い、浅いところにとどまろうとする。 「Ⅰ'm proud」 「声にならなくても 思いが時には伝わらなくても 笑顔も泣き顔も全てみんな 必ずあなたに知ってもらうの Ⅰ’m proud」 そんなことをするつもりもないくせに(きっと)こんな歌詞。 わたしは支えになってもらっていた。(こころのなかで)彼女のような友達がいることが自分の誇りだった。 現実的になにをしてくれるというのでなく、いつも心の中で支えにしていた。 自分の気持ちを伝えて思ったように応えてもらえなくても、自分のやり方が悪かった、違うやり方ならうまくい ったんだと思った。 でもね、現実は、私の支えになりたいとは思っていなかった。それは私の願望であって、現実ではなかった。 わたしが思い描いた友情を築きたいとは思ってなくて、浅い、ところにとどまっていたい。自分と向き合いたくない、というのがその時の本音、だった。 わたしは悪口を書いているのだろうか。それなら間違ってる気がするけど。 わたしは私の心の中を書きたい。 引っ越してから、会いに行くまで不安だった。遠い、と実感して帰ってくるんじゃないかと。自分を受け入れてもらえるだろうか 彼女を受け入れることができるだろうか、と。会いに行く前の日は逃げ出したくなった。 遊びに行った思い出は、ずっとずっと抱きしめて自分の支えになってくれそうな、楽しいすごく楽しい思い出だった。 だけど、それを支えにすることはできなくなった。むしろ支えにできないことが苦しかった。 どうしようもなかった。 わたしは 彼女から嫌われることが心底怖かった。 わたしはその事態を自分で招いた。 そうしたかったわけじゃないけど、そうなってしまった。 わたしは開放感と肯定感を胸に いろんなことをしたくなったし、いろんなひとにあいたくなったし いろんなところに行きたくなった。 その思いを持続できなくさせた(と思い込んだ)彼女を恨んだし、憎んだし、 伝達手段がそれでなかったら、とファックスに当たった。 朋ちゃんにも、自己肯定感が足りないのでは、と思った。 自分が在る事、いること、そのことを肯定できると、肯定できているとものすごく生きやすい。 肯定したいのって、感情、たぶん。 うれしい、たのしい、むかつく、あたまくる、とろんとする、うっとりする、、、 湧き上がってくる感情を、表現するかどうかは別に 肯定できるか、ということ。 その感情がそこにあることを許すということ。 それは自分がそこにいることを許す ということにつながるから。
by kohanana22
| 2007-07-03 18:56
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